角部屋のすみっこ

つぶやきにも満たないひとりごとを書くための場所。

武士道シックスティーン

八月がもうじき終わる。
今年の夏は有意義に過ごせていただろうか。
勉強、インターンシップ、サークル、バイトなど大学生らしい生活をしつつも、自分が入学前に掲げた目標からちゃんとブレずにやってこれているか。
そのチェックは今日に限らず、日々自分に問い続けている。
大学生の肩書もあと二年半しかないことに時折焦りを感じることもあるが、すでに歩んだ一年半にやってきたことを思い返せば自然と心のざわつきも落ち着く。
精一杯やってきた時間は心の支えであり、自信であり、原動力でもある。
残りの二年半もあとから振り返ってそう思えるような日々を送りたいなぁって切に思う。

 

 

こんなことを考え始めるのは今に始まったことではなく、いつもきまって、ある本の背表紙を見たときだ。

自室の本棚の右端にある『武士道シックスティーン』のことである。さっき何気なく開いたらまた全部読んでしまった。

読み進めていくうちに初めて読んだ中学生のころを思い出してきて、なんとも懐かしい気持ちになった。


武士道シックスティーン誉田哲也が書き下ろした青春小説。(余談だが誉田哲也さんの作品で唯一誰も死なないお話である)
主人公の女子高校生二人が剣道を通じて成長する物語。以下あらすじ。

3歳から鍛錬を積んできた剣道エリートの磯山香織は、横浜市民秋季剣道大会で同学年の無名選手(西荻)早苗に負けたことが忘れられず、その選手を追って剣道の名門・東松学園に入学する。再会した因縁の敵・西荻早苗はほぼ実績ゼロ、剣道は楽しむのがモットーのお気楽少女だった。失望しながらも強引に引っ張っていこうとする香織の姿に、次第に早苗は引き込まれていく。一方、香織も普通の16歳を生きる早苗を通して今まで経験してこなかった世界を知るようになる。

 

本作は、香織と早苗の二人の視点を交互に描いていく構成となっている。

勝つことしか考えてなかった香織と、父親の事業失敗という経験から勝負に対して否定的な早苗。全く接点のなかった二人が剣道を通して出会い、その過程で様々な困難や壁にぶつかる。

この何とも言えないザ・青春!って感じがたまらなく好きだ。

読み終わった後の爽やかな感じは中高で部活の経験がある人にはとくに分かるはずだ。

 

この本を読み返して気づいたことなのだが、香織や早苗が抱える問題に対する答えが思いの外簡単であるように感じた。

もちろん単純でも大切なことを説いているし、「言うは易く行うは難し」である。自分も当時は同じように年相応の悩みを持っていたので、この主人公たちの心情に共感したものである。

読み返してみて"簡単"に感じたのは、読み手である今の自分も年相応に変わったからなのかなって少し思った。

 

 

人間は年とともに成長していくが、年を追うごとに知識、経験が邪魔となり、素直に見る目を失っていく。
まぁそれも実際仕方ないことなのだ、知識や経験は精一杯生きていれば嫌でもついてくる。
そうして周囲が少しずつ変化し、その中にいる自分もまた周りに合わせ少しずつ変わっていく。

そんな目まぐるしく変化し続ける日常の中で変わらないものを持ち続けるのはとても難しいことだ。
今でさえ、日々のことに追われてつい忘れそうになることがあるくらいなのに。

いかに自分自身をしっかり見つめ、正しくとらえられるかが今後よりいっそう大事になってくるだろう。

 

「剣道は、剣道……。それ以上でも、以下でもないんだよ。もし大きかったり、小さかったりするんだとしたら、それはやってる人間の、魂の大きさなんだと思う。」

 

…そうっすねぇ、僕ももう少し大きな魂を持つひとになりたいです、はい。

 

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事実

昨日(日付的にはおととい)で前期のテストが終了した。

 

無事終わってくれたので一安心だ。
いやまぁ、無事かどうかは成績がでるまでわからんけど。
ひとまずは致命的な事故が起きることなくここまでこれたので良しとする。
あえていうなら、情報分野専攻なのに他の興味事にうつつを抜かしてあまり情報の知識がつかなかったのが前期の心残りだろうか。
夏休みを利用して一度復習すべきかもしれない。でないと後期で痛い目に遭うのわかってるしなぁ。

 


さて、ここで前期の講義をもう一度振り返ってみる。今期履修した中で一番面白かった講義を挙げるなら、個人的には「文学Ⅰ」だ。
文学という授業は経営学部にはないが、キャンパスが神楽坂になったのをきっかけに何か他学部の講義を受けてみたいと思って工学部の科目を履修してみた。

 

この講義は全15回の中で「事実を語ることの限界と可能性」という一貫したテーマが根底にあった。
要は、「事実を語るには当然言葉を使わなきゃ伝えられないけど、言葉で積み上げた事実ってどこまで信用できるの?」ということ。

例えば、歴史は主に人からの伝聞か残された文献からの二つから過去を評価・検証する。しかしそれらは当然のことながら言葉で述べられており、実際にその状況を目で見ているわけではない。
そうして作り上げられた歴史はどこまで信用できるのか。


こんな感じで、言葉という道具のできることとできないことを「限界と可能性」と教授は表現した。
曰く、人は言葉という道具を手に入れたことで目に見えないものを叙述できるようになった一方で事実を歪めてしまう可能性も出てきたそうな。

 

 

ではここで言葉の限界とは具体的にはなんのことだろうか?
ここでは「実際に起こったことがら」ぐらいに理解することにする。
実際に起こったことがらを言葉にする人は、その出来事を「出来事」と認識し言葉にする。
さらにそれを記述しようとするとき、もう一段階、「言葉の文章化」という虚構化の手続きを経なければならない。
たとえそれはどれだけ事実ありのままの体験だと思ったとしても、二重の段階での虚構化が加えられている。
だから事実はときとして文章化された出来事とはかけはなれたものになることがあるのだ。

 

それにもかかわらず、なぜ人は記事や本を読んで「これは事実にちがいない」と思ったり「事実のはずがない」と思ったりすることができるのだろうか。
それはおそらく、人は自分が見聞きしたことをもとにそこに目には見えない真実を見いだそうとするところに理由があるのではないかと思う。

 

  • 「人間なんて所詮、金だ」という人にとっての真実とは「所詮、金」ということである。その人は自分の真実を補強するために、自分が過去に見聞きした出来事を理由として取り出す。
 
  • 「わたしは小さい頃の不幸な体験によって人生を大きく狂わされた」という真実を持つ人はそれを補強するために、自分の過去に起こった不幸なことを出来事として取り出す。

 

つまり自分が信じたいと思ったことが真実であり、それが人の数だけあり、事実として周知されていく、とういうことだ。

 

 

もし嘘と本当が入り混じった事実を日々享受するだけでいれば、いずれ自分にとって何が真実なのか見失ってしまうだろう。
事実をとことん突き詰め、そこからでてきた自分の信じたいと思うものこそが自分にとっての真実なのだと僕は考える。
それが他者と同じ認知かどうかというのはもしかしたら些細な問題なのかもしれない。
気にしたところで、どうせ他者とすべての事実を共有することなんてできないのだから。
外的要因に惑わされることなく自分の信じる事実をとことん追求していく姿勢が大事なのだ。


…僕はまず優柔不断なところから直していこう笑

地球から来た男

八月に入り、いよいよ夏休みっぽい気候になってきた。暑いよぉ…。

 

小学生はとっくに夏休みが始まっているようで、かてきょーで担当している男の子はお盆を遊びつくすべく夏期課題に追われている。

特に鬼門となるのは読書感想文のようで、終始「えぇー本読むのめんどくさーい」といった様子。
たしかに本の感想なんて各々の中にとどめておけばいいじゃん!とは思う人も多いが、それを良しとはしないのが夏休みの宿題である。

 

そこで、こういうとき僕はいつも星新一ショートショートを薦めることにしている。一話が2、30ページだから短編小説の中でも特に読みやすいのだ。

星新一ショートショート中では「地球から来た男」という話が印象に残っている。

小学生のときに読んだのだが、内容は今でもはっきり覚えている。

とある産業スパイとして潜り込んだ主人公。しかし厳重な警備により捕まってしまい、開発途中のテレポーション装置で地球外に追放されてしまう。

気づいた時には未知の星の野原に横たわっていた。行く当てもなく歩き回るうちに、主人公はこの星がもといた地球にそっくりなことに気づく。自分と同じ言語を使い、切符を買って電車に乗り、ファミレスに出入りする。自分の家があった場所を訪ねてみると、自分の妻と息子に瓜二つの人物たちが出迎えた…。

その星はなんだったのか最後まで明かされることはなかったが、最後のシーンでは主人公は住み心地は悪くないとしつつもどこか心細さを感じていた。

 

結局のところ、この話では「きわめて地球にそっくりな地球はもはや地球なのか?」という問題が話の軸にある。
今いる星は異世界に飛ばされたという事実を除けばすべていつも通り生活できるのだ。
この場合、今いる環境をどう受け止めればいいのか。
カギとなるのは「気持ち」の部分だと思う。
どんなに似てようとも地球ではないと感じたら、もはやそこは地球ではない。
しかし、その気持ちがだんだん異世界の地に根ざし落ち着いてしまったら、そこは第二の地球と呼んでいいのかもしれない。
留学生が長期間のホームステイをしたとき、その家族や地域に愛着がわく心理と同じだ。

 

物語の終盤で主人公は不思議な声を耳にする。

どこからともなく声が聞こえる。
「住み心地はどうだい」
見まわすが、誰もいない、幻聴というのかもしれない。(16ページ目より)

声の主はおそらく主人公の不安に由来する、自分に向けた心の声なのだろう。

 


人はみな少なからず大小さまざまな寂しさを抱えている。
それは目に見えないので時々自分一人が孤独なのではないかという錯覚に陥る。
でもそれは個々人の気持ちの持ち方の問題で、自分が頭を抱え込んでいる間にも世界は相も変わらず動いている。
「地球から来た人」の主人公ではないが、目を閉じて開けた次の瞬間には異世界にいるかもしれないのに、一人勝手に孤独に感じて寂しくなるというのはとてももったいない気がする。それにそんなふうに悲観しながら生活するのは、いささか生きづらいのではないだろうか。

ふと感じる寂しさに折り合いをつけ、自分にとって落ち着く住み心地のいい環境を身近に少しづつ増やしていくのが大切なのだと思う。

 

 

 

 

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はじめに

意外に思われるかもしれないが、小さいころからわりとぼーっとするのが好きだった。

 

目や耳から入ってくるもの頭の中で回して、回して、そしてたまーに何か思いつく。

でもまぁ当時の僕が思いつくことは大抵しょうもないこと(ダジャレとか)だったりするので頭の中だけにとどめておく。

人に話してもハァ?みたいな顔をされるのが分かりきってたから口にすることもなかった。

内容自体も思いつくままに発想を広げているだけに支離滅裂なことが多い。

でもその発想の行きつく先を想像するのがとても楽しかった。

日々のことに追われて最近ではあまりやらなくなったけれど、ときどきその頃を思い出してはたまにその遊びをしてみることがある。

 

 

大学に入って間もない七月くらいの頃、とある先輩(っていっても15歳年上)にその話をしたら一冊のノートに書き残しておくのを勧められた。

なんでも、「あとから見返したら絶対面白いから!」らしい。

その日の帰りに100均でノートを一冊買った。

それからは、愛用してるリュックの中にいつも忍ばせておいて「ぼんやり考えたことを書く」の他にも「一日の中で面白いと感じたこと」「読んだ本で印象に残ったこと」「個性豊かな人の観察記録」なども書いていった。

どうせ自分しか読まないって思うと気楽になんでも書けた。

僕は生来のめんどくさがりなので明日くらいにはノートの存在自体忘れてそうとか思っていたけどそれが案外続いて驚いた。

 

 

そしてちょうど先週そのノートを使い切った。

ちょっとした達成感もあって心地良い気分だった。

また二冊目を買いに行こうかなって思ってたけど面倒でなかなか買いに行けていない。

この辺の適当さは相変わらずである。

どうしようかなーって思ってたところに友人がブログを日々の手記代わりにしていたのを思い出した。

これアリだな。100円だすのもったいないし(言い訳)

 

ゆえにこんな深夜に、さらにはテスト期間真っ只中に、こんなものをつくってしまった。

あぁ、はやく勉強に戻らねば、、、 

 

 

 

そんなわけで、以前の100均ノートのときと同じ感覚でゆるくやっていきます。ところどころ何言ってんだこいつみたいなところも多々あるかもしれないけどその辺は大目に見てください。

 

しばらくは非公開でやるつもりだけどぼちぼち続いたら公開にするかもしれないっす。