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角部屋のすみっこ

つぶやきにも満たないひとりごとを書くための場所。

事実

昨日(日付的にはおととい)で前期のテストが終了した。

 

無事終わってくれたので一安心だ。
いやまぁ、無事かどうかは成績がでるまでわからんけど。
ひとまずは致命的な事故が起きることなくここまでこれたので良しとする。
あえていうなら、情報分野専攻なのに他の興味事にうつつを抜かしてあまり情報の知識がつかなかったのが前期の心残りだろうか。
夏休みを利用して一度復習すべきかもしれない。でないと後期で痛い目に遭うのわかってるしなぁ。

 


さて、ここで前期の講義をもう一度振り返ってみる。今期履修した中で一番面白かった講義を挙げるなら、個人的には「文学Ⅰ」だ。
文学という授業は経営学部にはないが、キャンパスが神楽坂になったのをきっかけに何か他学部の講義を受けてみたいと思って工学部の科目を履修してみた。

 

この講義は全15回の中で「事実を語ることの限界と可能性」という一貫したテーマが根底にあった。
要は、「事実を語るには当然言葉を使わなきゃ伝えられないけど、言葉で積み上げた事実ってどこまで信用できるの?」ということ。

例えば、歴史は主に人からの伝聞か残された文献からの二つから過去を評価・検証する。しかしそれらは当然のことながら言葉で述べられており、実際にその状況を目で見ているわけではない。
そうして作り上げられた歴史はどこまで信用できるのか。


こんな感じで、言葉という道具のできることとできないことを「限界と可能性」と教授は表現した。
曰く、人は言葉という道具を手に入れたことで目に見えないものを叙述できるようになった一方で事実を歪めてしまう可能性も出てきたそうな。

 

 

ではここで言葉の限界とは具体的にはなんのことだろうか?
ここでは「実際に起こったことがら」ぐらいに理解することにする。
実際に起こったことがらを言葉にする人は、その出来事を「出来事」と認識し言葉にする。
さらにそれを記述しようとするとき、もう一段階、「言葉の文章化」という虚構化の手続きを経なければならない。
たとえそれはどれだけ事実ありのままの体験だと思ったとしても、二重の段階での虚構化が加えられている。
だから事実はときとして文章化された出来事とはかけはなれたものになることがあるのだ。

 

それにもかかわらず、なぜ人は記事や本を読んで「これは事実にちがいない」と思ったり「事実のはずがない」と思ったりすることができるのだろうか。
それはおそらく、人は自分が見聞きしたことをもとにそこに目には見えない真実を見いだそうとするところに理由があるのではないかと思う。

 

  • 「人間なんて所詮、金だ」という人にとっての真実とは「所詮、金」ということである。その人は自分の真実を補強するために、自分が過去に見聞きした出来事を理由として取り出す。
 
  • 「わたしは小さい頃の不幸な体験によって人生を大きく狂わされた」という真実を持つ人はそれを補強するために、自分の過去に起こった不幸なことを出来事として取り出す。

 

つまり自分が信じたいと思ったことが真実であり、それが人の数だけあり、事実として周知されていく、とういうことだ。

 

 

もし嘘と本当が入り混じった事実を日々享受するだけでいれば、いずれ自分にとって何が真実なのか見失ってしまうだろう。
事実をとことん突き詰め、そこからでてきた自分の信じたいと思うものこそが自分にとっての真実なのだと僕は考える。
それが他者と同じ認知かどうかというのはもしかしたら些細な問題なのかもしれない。
気にしたところで、どうせ他者とすべての事実を共有することなんてできないのだから。
外的要因に惑わされることなく自分の信じる事実をとことん追求していく姿勢が大事なのだ。


…僕はまず優柔不断なところから直していこう笑